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第二章「時を忘れた花々」

Penulis: 佐薙真琴
last update Terakhir Diperbarui: 2025-12-16 10:01:19

 翌週の土曜日、胡蝶は朝から薔薇園を訪れた。

 いつもより早い時間で、朝露がまだ花びらの上で宝石のように輝いている。空気は冷たく澄んでいて、薔薇の香りがより鮮明に感じられた。

 門をくぐると、マリアンヌがすでに庭で作業をしていた。麦わら帽子を被り、古いエプロンをつけて、丁寧に雑草を抜いている。

「おはようございます、マリアンヌさん」

「あら、胡蝶さん。今日は早いのね」

 マリアンヌは立ち上がり、腰に手を当てて微笑んだ。

「お手伝いさせてください。私にもできることがあれば」

「まあ、嬉しいわ。じゃあ、一緒に水やりをしましょうか」

 二人は古いブリキのジョウロに水を汲み、薔薇の根元に丁寧に注いでいった。

 朝の光の中で、庭園はまた違った表情を見せていた。蜘蛛の巣に朝露が付いて、銀色の糸のように光っている。鳥たちが枝から枝へと飛び移り、楽しげにさえずっていた。

「マリアンヌさん、この庭はいつからあるんですか?」

 胡蝶は水やりをしながら尋ねた。

「そうね……この洋館が建てられたのは、今から八十年ほど前よ」

 マリアンヌは遠い目をして言った。

「建てたのはフランス人の実業家、ジャン=ピエール・ローレンス。私の夫の祖父にあたる人よ」

「ご主人の……?」

「ええ。私は若い頃、このローレンス家の庭師として雇われたの。当時、私は二十歳で、薔薇の栽培について学んでいた」

 マリアンヌは一つの薔薇の前で立ち止まった。深紅の大輪の薔薇だ。

「そして、ここで働いているうちに、ローレンス家の息子――アンリと恋に落ちたの」

 その言葉に、胡蝶の心臓が高鳴った。まるで古い恋愛小説の一場面のようだった。

「アンリは音楽家でね。ピアノを弾くのが上手だった。この洋館のサロンで、よく演奏会を開いていたのよ」

 マリアンヌの瞳が、記憶の中を泳いでいる。

「私が庭で薔薇の世話をしていると、窓からアンリのピアノの音が聞こえてきた。ショパン、ドビュッシー、ラヴェル……美しい旋律が薔薇の香りと混ざり合って、まるで夢の中にいるようだった」

「素敵ですね」

 胡蝶は心から感動して言った。

「でも、幸せは長くは続かなかったの」

 マリアンヌの声が少し震えた。

「戦争が始まったのよ。アンリは出征し、二度と帰ってこなかった」

「マリアンヌさん……」

「それから私は、ずっとこの庭を守り続けてきたの。アンリが愛した薔薇を、枯らすわけにはいかなかったから」

 マリアンヌは深紅の薔薇に触れた。その仕草は、まるで恋人の頬に触れるように優しかった。

「この薔薇はね、『パパ・メイアン』という品種なの。アンリが私のために植えてくれた薔薇よ。彼は言ったわ。『マリアンヌ、君の情熱のように燃えるような赤い薔薇だ』って」

 胡蝶の目に涙が浮かんだ。

「だから私は言ったの。美しいものは消えないって。アンリはもういないけれど、この薔薇が咲くたびに、彼の笑顔が蘇るの。彼のピアノの音が聞こえる気がするの」

 風が吹いて、薔薇の花びらが揺れた。まるでアンリの魂が、今もこの庭に住んでいるかのようだった。

「記憶は、形を変えて生き続けるのよ」

 マリアンヌは胡蝶を見て言った。

「写真も、日記も、いつかは色褪せる。でも、生きている薔薇は、毎年新しく咲いて、記憶を更新し続けるの」

 その言葉が、胡蝶の心に深く刻まれた。

 午後、紬もやってきた。彼女は大きな布の袋を持っていて、中には刺繍の道具が入っているようだった。

「こんにちは、胡蝶さん、マリアンヌさん」

「紬さん、来てくれたのね」

 マリアンヌは嬉しそうに微笑んだ。

「今日は二人に、特別な場所を見せてあげましょう」

 マリアンヌは二人を洋館の中へ導いた。

 重い木の扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ出てきた。玄関ホールは広く、大理石の床が静かに光っている。正面には優雅な曲線を描く階段があり、壁には古い肖像画が飾られていた。

「ここが、ローレンス・ハウスの中よ」

 マリアンヌは言いながら、階段を上り始めた。

 二階に上がると、長い廊下が続いていた。両側に部屋が並び、所々の扉が半開きになっている。

「ここがアンリの書斎」

 マリアンヌが一つの部屋の扉を開けた。

 部屋の中には、古いグランドピアノがあった。埃を被っているけれど、かつての威厳を保っている。壁には楽譜が並び、小さな机の上にはインクの瓶とペンが置かれていた。

 まるで時間が止まったような部屋だった。

「時々、調律師を呼んで音を保っているの」

 マリアンヌはピアノの蓋を開けた。

「アンリの音楽を、完全に消してしまうのが怖くて」

 そして、彼女はゆっくりと鍵盤に指を置いた。

 流れ出したのは、ドビュッシーの『月の光』だった。

 古いピアノの音色は、どこか遠くから聞こえてくるようで、それでいて心の奥底に響いてくる。マリアンヌの指は少し震えていたけれど、演奏は美しかった。

 胡蝶は目を閉じた。

 音楽と薔薇の香りが混ざり合って、まるで過去と現在が溶け合うような感覚に包まれる。

 曲が終わると、しばらく誰も言葉を発しなかった。

「ありがとうございます」

 ようやく胡蝶が囁いた。

「こんなに美しい音楽を聴かせてくれて」

「いいえ。あなたたちのような若い人に聴いてもらえて、アンリも喜んでいると思うわ」

 次に、マリアンヌは三階への階段を上った。

 そこには小さなアトリエがあった。窓からは庭園全体が見渡せる。部屋の中には、大きな刺繍枠と、無数の色糸が並んだ棚があった。

「ここが私の作業場よ」

 マリアンヌは窓辺に立って言った。

「戦争が終わってから、私は刺繍を始めたの。アンリの記憶を、何か形あるものに残したかったから」

 壁には、額装された刺繍作品が飾られていた。

 薔薇の庭の風景。ピアノを弾く男性の後ろ姿。月夜の洋館。全てが驚くほど精緻で、まるで絵画のようだった。

「すごい……」

 紬が感嘆の声を上げた。

「これが、フランス刺繍の技法なの」

 マリアンヌは一つの額を指差した。

「サテンステッチ、ロング&ショートステッチ、フレンチノット……様々な技法を組み合わせて、絵を描くように刺繍していくの」

 紬は食い入るように作品を見つめていた。

「マリアンヌさん、教えてください」

 紬の声に、普段にない強さがあった。

「この技術を、もっと深く学びたいんです」

「もちろん、紬さん。あなたには才能があるわ」

 マリアンヌは優しく微笑んだ。

「でも、技術だけでは足りないの。刺繍には魂を込めなければならない。あなたが何を伝えたいのか、何を残したいのか、それを見つけることが大切よ」

 紬は真剣な顔で頷いた。

 その日、三人はアトリエで午後を過ごした。

 マリアンヌは紬に刺繍の技法を教え、胡蝶はその様子をスケッチした。窓から差し込む光が部屋を満たし、時折吹く風が白いレースのカーテンを揺らしていた。

「胡蝶さんは、刺繍はしないの?」

 作業の手を休めて、紬が尋ねた。

「私は……作ることは苦手なの」

 胡蝶は少し寂しそうに笑った。

「美しいものを見つけることはできるけれど、自分で作り出すことができない」

「そんなことないわ」

 マリアンヌが言った。

「あなたは美しいものを見つける目を持っている。それは素晴らしい才能よ。全ての創作者は、まず良い目を持つことから始まるの」

「でも……」

「それに」マリアンヌは続けた。「あなたには、美しいものを愛する心がある。それが最も大切なのよ。技術は後からついてくるけれど、愛する心は生まれつきのものだから」

 胡蝶の目に、また涙が浮かんだ。

 夕暮れ時、三人は庭のベンチに座ってお茶を飲んだ。マリアンヌが淹れた紅茶は、薔薇の香りがほのかに漂う特別なブレンドだった。

「ねえ、マリアンヌさん」

 胡蝶が口を開いた。

「この庭が取り壊されるって、本当なんですか?」

 マリアンヌは静かに頷いた。

「市の再開発計画で、この一帯に大型マンションが建つことになったの。来年の春には、取り壊しが始まるでしょう」

「そんな……」

 紬も悲しそうな顔をした。

「何か方法はないんですか? 署名運動とか」

「もう手は尽くしたのよ」

 マリアンヌは薔薇園を見渡しながら言った。

「でもね、悲しんではいないの。この庭は八十年も存在してきた。それは奇跡的なことよ」

「諦めるんですか?」

 胡蝶は思わず声を荒らげた。

「こんなに美しい場所なのに……!」

「諦めるのではないわ、胡蝶さん」

 マリアンヌは穏やかに言った。

「形あるものは、いつか必ず失われる。でも、私たちにできることがある」

「できること?」

「記憶を残すのよ。この庭の美しさを、様々な形で後世に伝えるの」

 マリアンヌは二人の顔を見つめた。

「写真、絵、文章、そして……刺繍」

 紬がはっとした表情を見せた。

「あなたたちなら、できるわ。この庭の魂を、何か別の形で残すことが」

 その言葉が、二人の少女の心に火を灯した。

 帰り道、胡蝶と紬は並んで歩いた。夕焼けが街を赤く染めている。

「私、決めた」

 紬が突然言った。

「この庭を刺繍で残す。全ての薔薇を、布の上に咲かせるの」

「紬さん……」

「一人じゃ無理かもしれない。でも、やってみたい」

 紬の瞳に、今まで見たことのない強い光があった。

「私も手伝う」

 胡蝶は言った。

「私にできることを探す。一緒に、この庭を守りましょう」

 二人は手を取り合った。

 それは、少女たちの小さな反逆の始まりだった。

 形あるものは失われても、心の中に生き続けるものがある。

 マリアンヌが教えてくれたその真実を、二人はこれから自分たちの手で証明することになる。

 夕陽が沈み、街に静かな夜が訪れる。

 でも、薔薇園にはまだ光が残っていた。

 それは記憶の光であり、愛の光であり、そして未来への希望の光だった。

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