LOGIN翌週の土曜日、胡蝶は朝から薔薇園を訪れた。
いつもより早い時間で、朝露がまだ花びらの上で宝石のように輝いている。空気は冷たく澄んでいて、薔薇の香りがより鮮明に感じられた。
門をくぐると、マリアンヌがすでに庭で作業をしていた。麦わら帽子を被り、古いエプロンをつけて、丁寧に雑草を抜いている。
「おはようございます、マリアンヌさん」
「あら、胡蝶さん。今日は早いのね」
マリアンヌは立ち上がり、腰に手を当てて微笑んだ。
「お手伝いさせてください。私にもできることがあれば」
「まあ、嬉しいわ。じゃあ、一緒に水やりをしましょうか」
二人は古いブリキのジョウロに水を汲み、薔薇の根元に丁寧に注いでいった。
朝の光の中で、庭園はまた違った表情を見せていた。蜘蛛の巣に朝露が付いて、銀色の糸のように光っている。鳥たちが枝から枝へと飛び移り、楽しげにさえずっていた。
「マリアンヌさん、この庭はいつからあるんですか?」
胡蝶は水やりをしながら尋ねた。
「そうね……この洋館が建てられたのは、今から八十年ほど前よ」
マリアンヌは遠い目をして言った。
「建てたのはフランス人の実業家、ジャン=ピエール・ローレンス。私の夫の祖父にあたる人よ」
「ご主人の……?」
「ええ。私は若い頃、このローレンス家の庭師として雇われたの。当時、私は二十歳で、薔薇の栽培について学んでいた」
マリアンヌは一つの薔薇の前で立ち止まった。深紅の大輪の薔薇だ。
「そして、ここで働いているうちに、ローレンス家の息子――アンリと恋に落ちたの」
その言葉に、胡蝶の心臓が高鳴った。まるで古い恋愛小説の一場面のようだった。
「アンリは音楽家でね。ピアノを弾くのが上手だった。この洋館のサロンで、よく演奏会を開いていたのよ」
マリアンヌの瞳が、記憶の中を泳いでいる。
「私が庭で薔薇の世話をしていると、窓からアンリのピアノの音が聞こえてきた。ショパン、ドビュッシー、ラヴェル……美しい旋律が薔薇の香りと混ざり合って、まるで夢の中にいるようだった」
「素敵ですね」
胡蝶は心から感動して言った。
「でも、幸せは長くは続かなかったの」
マリアンヌの声が少し震えた。
「戦争が始まったのよ。アンリは出征し、二度と帰ってこなかった」
「マリアンヌさん……」
「それから私は、ずっとこの庭を守り続けてきたの。アンリが愛した薔薇を、枯らすわけにはいかなかったから」
マリアンヌは深紅の薔薇に触れた。その仕草は、まるで恋人の頬に触れるように優しかった。
「この薔薇はね、『パパ・メイアン』という品種なの。アンリが私のために植えてくれた薔薇よ。彼は言ったわ。『マリアンヌ、君の情熱のように燃えるような赤い薔薇だ』って」
胡蝶の目に涙が浮かんだ。
「だから私は言ったの。美しいものは消えないって。アンリはもういないけれど、この薔薇が咲くたびに、彼の笑顔が蘇るの。彼のピアノの音が聞こえる気がするの」
風が吹いて、薔薇の花びらが揺れた。まるでアンリの魂が、今もこの庭に住んでいるかのようだった。
「記憶は、形を変えて生き続けるのよ」
マリアンヌは胡蝶を見て言った。
「写真も、日記も、いつかは色褪せる。でも、生きている薔薇は、毎年新しく咲いて、記憶を更新し続けるの」
その言葉が、胡蝶の心に深く刻まれた。
午後、紬もやってきた。彼女は大きな布の袋を持っていて、中には刺繍の道具が入っているようだった。
「こんにちは、胡蝶さん、マリアンヌさん」
「紬さん、来てくれたのね」
マリアンヌは嬉しそうに微笑んだ。
「今日は二人に、特別な場所を見せてあげましょう」
マリアンヌは二人を洋館の中へ導いた。
重い木の扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ出てきた。玄関ホールは広く、大理石の床が静かに光っている。正面には優雅な曲線を描く階段があり、壁には古い肖像画が飾られていた。
「ここが、ローレンス・ハウスの中よ」
マリアンヌは言いながら、階段を上り始めた。
二階に上がると、長い廊下が続いていた。両側に部屋が並び、所々の扉が半開きになっている。
「ここがアンリの書斎」
マリアンヌが一つの部屋の扉を開けた。
部屋の中には、古いグランドピアノがあった。埃を被っているけれど、かつての威厳を保っている。壁には楽譜が並び、小さな机の上にはインクの瓶とペンが置かれていた。
まるで時間が止まったような部屋だった。
「時々、調律師を呼んで音を保っているの」
マリアンヌはピアノの蓋を開けた。
「アンリの音楽を、完全に消してしまうのが怖くて」
そして、彼女はゆっくりと鍵盤に指を置いた。
流れ出したのは、ドビュッシーの『月の光』だった。
古いピアノの音色は、どこか遠くから聞こえてくるようで、それでいて心の奥底に響いてくる。マリアンヌの指は少し震えていたけれど、演奏は美しかった。
胡蝶は目を閉じた。
音楽と薔薇の香りが混ざり合って、まるで過去と現在が溶け合うような感覚に包まれる。
曲が終わると、しばらく誰も言葉を発しなかった。
「ありがとうございます」
ようやく胡蝶が囁いた。
「こんなに美しい音楽を聴かせてくれて」
「いいえ。あなたたちのような若い人に聴いてもらえて、アンリも喜んでいると思うわ」
次に、マリアンヌは三階への階段を上った。
そこには小さなアトリエがあった。窓からは庭園全体が見渡せる。部屋の中には、大きな刺繍枠と、無数の色糸が並んだ棚があった。
「ここが私の作業場よ」
マリアンヌは窓辺に立って言った。
「戦争が終わってから、私は刺繍を始めたの。アンリの記憶を、何か形あるものに残したかったから」
壁には、額装された刺繍作品が飾られていた。
薔薇の庭の風景。ピアノを弾く男性の後ろ姿。月夜の洋館。全てが驚くほど精緻で、まるで絵画のようだった。
「すごい……」
紬が感嘆の声を上げた。
「これが、フランス刺繍の技法なの」
マリアンヌは一つの額を指差した。
「サテンステッチ、ロング&ショートステッチ、フレンチノット……様々な技法を組み合わせて、絵を描くように刺繍していくの」
紬は食い入るように作品を見つめていた。
「マリアンヌさん、教えてください」
紬の声に、普段にない強さがあった。
「この技術を、もっと深く学びたいんです」
「もちろん、紬さん。あなたには才能があるわ」
マリアンヌは優しく微笑んだ。
「でも、技術だけでは足りないの。刺繍には魂を込めなければならない。あなたが何を伝えたいのか、何を残したいのか、それを見つけることが大切よ」
紬は真剣な顔で頷いた。
その日、三人はアトリエで午後を過ごした。
マリアンヌは紬に刺繍の技法を教え、胡蝶はその様子をスケッチした。窓から差し込む光が部屋を満たし、時折吹く風が白いレースのカーテンを揺らしていた。
「胡蝶さんは、刺繍はしないの?」
作業の手を休めて、紬が尋ねた。
「私は……作ることは苦手なの」
胡蝶は少し寂しそうに笑った。
「美しいものを見つけることはできるけれど、自分で作り出すことができない」
「そんなことないわ」
マリアンヌが言った。
「あなたは美しいものを見つける目を持っている。それは素晴らしい才能よ。全ての創作者は、まず良い目を持つことから始まるの」
「でも……」
「それに」マリアンヌは続けた。「あなたには、美しいものを愛する心がある。それが最も大切なのよ。技術は後からついてくるけれど、愛する心は生まれつきのものだから」
胡蝶の目に、また涙が浮かんだ。
夕暮れ時、三人は庭のベンチに座ってお茶を飲んだ。マリアンヌが淹れた紅茶は、薔薇の香りがほのかに漂う特別なブレンドだった。
「ねえ、マリアンヌさん」
胡蝶が口を開いた。
「この庭が取り壊されるって、本当なんですか?」
マリアンヌは静かに頷いた。
「市の再開発計画で、この一帯に大型マンションが建つことになったの。来年の春には、取り壊しが始まるでしょう」
「そんな……」
紬も悲しそうな顔をした。
「何か方法はないんですか? 署名運動とか」
「もう手は尽くしたのよ」
マリアンヌは薔薇園を見渡しながら言った。
「でもね、悲しんではいないの。この庭は八十年も存在してきた。それは奇跡的なことよ」
「諦めるんですか?」
胡蝶は思わず声を荒らげた。
「こんなに美しい場所なのに……!」
「諦めるのではないわ、胡蝶さん」
マリアンヌは穏やかに言った。
「形あるものは、いつか必ず失われる。でも、私たちにできることがある」
「できること?」
「記憶を残すのよ。この庭の美しさを、様々な形で後世に伝えるの」
マリアンヌは二人の顔を見つめた。
「写真、絵、文章、そして……刺繍」
紬がはっとした表情を見せた。
「あなたたちなら、できるわ。この庭の魂を、何か別の形で残すことが」
その言葉が、二人の少女の心に火を灯した。
帰り道、胡蝶と紬は並んで歩いた。夕焼けが街を赤く染めている。
「私、決めた」
紬が突然言った。
「この庭を刺繍で残す。全ての薔薇を、布の上に咲かせるの」
「紬さん……」
「一人じゃ無理かもしれない。でも、やってみたい」
紬の瞳に、今まで見たことのない強い光があった。
「私も手伝う」
胡蝶は言った。
「私にできることを探す。一緒に、この庭を守りましょう」
二人は手を取り合った。
それは、少女たちの小さな反逆の始まりだった。
形あるものは失われても、心の中に生き続けるものがある。
マリアンヌが教えてくれたその真実を、二人はこれから自分たちの手で証明することになる。
夕陽が沈み、街に静かな夜が訪れる。
でも、薔薇園にはまだ光が残っていた。
それは記憶の光であり、愛の光であり、そして未来への希望の光だった。
桜が満開の四月、御厨胡蝶は久しぶりに故郷の街を訪れた。 東京の大学で写真を学んで三年。春休みを利用しての帰省だった。 駅を降りると、懐かしい空気が胡蝶を包んだ。変わらない商店街、変わらない街並み。でも、どこか新しい活気も感じられた。 駅前には、大きな看板が立っていた。「桜丘ローズガーデン・ミュージアム 春の特別展開催中」 胡蝶は微笑んだ。 あれから五年。薔薇園は、今や街の誇りとなっていた。 バス停に向かう途中、ふと目に入った本屋のウィンドウに、一冊の本が飾られていた。「刺繍で綴る庭園の記憶」――著者:遠山紬 胡蝶は思わず立ち止まった。 紬の初めての作品集だった。 本を手に取ると、表紙には薔薇園の刺繍が使われていた。あの時、二人で作り上げた記憶の庭園の写真が、美しい装丁になっている。 ページをめくると、紬の五年間の作品が並んでいた。 薔薇園の四季。消えゆく古民家。忘れられた路地裏の風景。 全てが、愛情を込めて刺繍されていた。「すみません、これください」 胡蝶はレジに向かった。 書店を出て、胡蝶はそのまま薔薇園へ向かった。 懐かしい路地を抜けると、あの錆びた鉄の門が見えてくる。 でも、今は門の横に立派な看板が立っていた。「桜丘ローズガーデン・ミュージアム」 開館時間:9:00~17:00 入場料:500円 胡蝶はチケットを買って、門をくぐった。 一歩足を踏み入れた瞬間、時間が止まったような感覚に襲われた。 五年前と、何も変わっていなかった。 いや、もっと美しくなっていた。 薔薇たちは丁寧に手入れされ、小道は整備され、所々にベンチや案内板が設置されている。でも、庭の本質は失われていなかった。 あの時の静謐さ、優しさ、温もり――全てがそこにあった。「胡蝶さん!」 声に振り向くと、紬が走ってきた。
十二月が訪れた。 薔薇園の木々は葉を落とし、冬の眠りについていた。花はほとんど咲いていないけれど、その静謐な美しさもまた格別だった。 保存が決定した後、様々な動きがあった。 市は「桜丘ローズガーデン・ミュージアム」という名称で、この庭園を文化施設として整備することを決定した。マリアンヌは名誉顧問として、引き続き庭の管理に携わることになった。 そして、地域のボランティア団体が結成され、庭の維持管理を手伝うことになった。多くの市民が手を挙げてくれた。「みんな、この庭を愛してくれているのね」 マリアンヌは感慨深げに言った。 胡蝶の父親の転勤は、結局延期になった。
十一月の終わり、薔薇園に最初の霜が降りた朝のことだった。 マリアンヌは一人、庭を歩いていた。白く凍った草の上を、慎重に足を進める。薔薇の葉も霜で縁取られて、銀色に輝いていた。 この季節になると、いつも思い出すことがある。 八十年前の冬。アンリが出征する日のことを。 あれは一九四三年の十二月だった。 戦争が激しさを増し、多くの若者が戦地へ送られていた時代。アンリもその一人として、召集令状を受け取った。「マリアンヌ」 出発の前日、アンリは彼女をこの庭に呼んだ。 雪が降り始めていた。薔薇たちは冬の眠りについていて、花は一つも咲いていなかった。でも、アンリは庭の中央にある一本の薔薇の前に立った。「これは、パパ・メイアンという薔薇だ。まだ新しい品種でね、フランスから取り寄せたんだ」 アンリの声は穏やかだったが、どこか緊張していた。「春になれば、深紅の花を咲かせる。まるで情熱の炎のような、美しい薔薇だよ」「なぜ、今その話を……?」 マリアンヌは尋ねた。心の奥で、もう答えが分かっていたけれど。「君への贈り物だよ」 アンリは彼女の手を取った。「僕がいなくても、この薔薇が毎年咲く。その度に、僕を思い出してほしい」「アンリ……」「約束してくれ、マリアンヌ。この庭を守ると。薔薇たちを愛し続けると」 マリアンヌは涙をこらえて頷いた。「約束するわ。あなたが帰ってくるまで、必ず」 その夜、アンリは最後の演奏会を開いた。 洋館のサロンには、親戚や友人たちが集まった。でも、アンリの目は、ずっとマリアンヌを見ていた。 彼が選んだ曲は、ショパンの『別れの曲』だった。 ピアノの音色が、サロンに響き渡る。悲しくて、美しくて、胸が締め付けられるような旋律。 マリアンヌは、必死に涙を堪えた。 でも、曲の最後の和音が消えた時、もう堪えきれな
十月に入り、空気が秋めいてくると、薔薇園にも変化が訪れた。 夏の深い緑は、少しずつ黄色や赤みを帯び始める。実をつけた薔薇もあり、その姿もまた美しかった。「秋の薔薇は、春とは違う魅力があるのよ」 マリアンヌが言った。「花は小さくなるけれど、色が濃くなる。香りも、より深みを増すの」 胡蝶はカメラを構えて、秋の薔薇を撮影した。深紅の花びらに、朝露が光っている。 文化祭は二週間後に迫っていた。 紬の大作――庭園全体を描いた刺繍は、ようやく全体の姿が見えてきた。 縦一メートル、横一メートル五十センチの大きな布に、薔薇園の風景が刺繍されている。手前には様々な色の薔薇が咲き、奥には白い洋館が佇む。空は淡い青で、雲が浮かんでいる。「すごい……」 それを見た高村先生が感嘆の声を上げた。「これは、もう芸術作品のレベルよ。プロの刺繍作家でも、ここまでのものを作るのは難しい」「でも、まだ完成してないんです」 紬は疲れた顔で言った。「細部が詰め切れていない。もっと、もっと……」「紬さん」 胡蝶が紬の手を取った。「もう十分だよ。これ以上無理したら、体を壊しちゃう」 実際、紬の体調は限界に近かった。睡眠不足と過労で、時々めまいを起こすほどだった。「でも……」「完璧を目指さなくてもいいの」 マリアンヌが優しく言った。「芸術は、完成することよりも、心を込めることの方が大切よ。あなたの作品には、もう十分魂が宿っているわ」 紬の目に涙が浮かんだ。「本当に……これでいいんでしょうか」「ええ」 マリアンヌは紬を抱きしめた。「あなたは素晴らしい仕事をした。誇りに思っていいのよ」 その温もりに、紬はようやく肩の力を抜いた。 一方、署名活動
七月に入り、薔薇の最盛期が過ぎると、庭は少し静かになった。 花の数は減り、葉が濃い緑色に変わっていく。でも、その静けさにも独特の美しさがあった。 胡蝶は、薔薇園の四季を全て記録しようと決めた。春の華やかさだけでなく、夏の深い緑、秋の実り、そして冬の眠りまで。「季節によって、庭の表情が全く違うの」 胡蝶はカメラのファインダーを覗きながら言った。「この変化も、記憶の一部として残したい」 紬の刺繍も、順調に進んでいた。 すでに十五種類の薔薇が完成し、それぞれが驚くほどの完成度だった。でも、紬は満足していなかった。「まだ足りないの」 ある日、紬は悩ましげに言った。「個々の薔薇は刺繍できた。でも、庭全体の雰囲気を表現する大作も作りたい」「大作?」「うん。すべての薔薇が一つの布に咲いている、庭園の風景を刺繍したいの」 それは途方もない計画だった。 一つの薔薇を刺繍するのに一週間かかる。庭全体を表現するとなれば、数ヶ月では足りないだろう。「時間が足りないわ」 マリアンヌが心配そうに言った。「十二月までに完成させるのは、無理があるんじゃない?」「でも、やりたいんです」 紬の目には、強い決意の光があった。「この庭の本当の美しさは、個々の薔薇だけじゃない。全体の調和、光と影のバランス、空気の流れ……そういう全てを含めて、薔薇園なんです」 マリアンヌは深く頷いた。「分かったわ。じゃあ、一緒に頑張りましょう」 それから、紬の生活は刺繍一色になった。 朝は早く起きて、登校前に一時間刺繍する。昼休みも、放課後も、全ての時間を刺繍に費やした。「紬さん、大丈夫?」 ひかりが心配そうに声をかけてきた。「最近、ずっと疲れてるみたいだけど」「大丈夫」 紬は笑顔を作った。「やらなきゃいけないことがあ
月曜日の朝、胡蝶は教室で紬の姿を探した。 いつもの席に紬はいたが、何かが違った。大きな眼鏡の奥の瞳が、いつもより輝いている。背筋もピンと伸びていて、まるで何かを決意した人のような雰囲気があった。「おはよう、紬さん」 胡蝶が声をかけると、紬は顔を上げて微笑んだ。「おはよう、胡蝶さん。あのね、昨日からずっと考えてたの」「薔薇園のこと?」「うん。どうやって刺繍で残すか、構想を練ってた」 紬はノートを開いて見せた。そこには薔薇園の簡単な見取り図と、様々な薔薇の名前が書き込まれていた。「全部で三十二種類の薔薇があるの。それぞれの特徴を刺繍で表現したい」「すごい……もう調べたんだ」「マリアンヌさんから薔薇のリストをもらったの。それに、刺繍の技法も勉強しなきゃ」 紬の熱意に、胡蝶も心が動いた。「私も何かしたい。写真を撮るのはどう? 記録として残せるし」「それいいね! 私が刺繍するときの参考にもなる」 昼休み、二人は図書室に行った。 刺繍に関する本を探すためだ。古い手芸の本から、現代の刺繍アートの写真集まで、関連する資料を次々と借りた。「見て、これ」 紬が一冊の本を開いた。 それは十九世紀のフランス刺繍の技法書だった。精緻なイラストとともに、様々なステッチの方法が解説されている。「サテンステッチは、光沢のある糸を使って花びらの滑らかさを表現するの。ロング&ショートステッチは、色の濃淡を自然に繋げることができる」 紬は興奮した様子で説明した。「フレンチノットは小さな結び目を作って、花の中心や蕾を表現するの。それから……」 胡蝶は紬の横顔を見つめていた。 こんなに生き生きと話す紬を見るのは初めてだった。普段は教室の隅で静かにしている彼女が、刺繍のことになると別人のように輝く。「紬さん、刺繍が本当に好きなんだね」 胡蝶の言葉に、紬は少し照れくさそうに頷いた。「うん。小さい頃からずっと好きだった。でも、誰にも言えなくて」「どうして?」「だって……地味でしょう? 刺繍なんて、おばあちゃんの趣味みたいで」 紬は自嘲的に笑った。「クラスのみんなは、もっとキラキラしたことに興味があるから。私みたいに、糸と針で地道な作業をするなんて、変わってるって思われそうで」「そんなことない」 胡蝶は強く言った。「紬さんの刺繍は、本当に美しい。